珠洲市珠洲市(SUZU CITY) 市の花:椿
サイトマップ 文字サイズ
拡大標準縮小
背景切り替え
印刷用画面
btn_mobile
現在位置:トップページの中の市政に関することの中の珠洲市のあらましから珠洲市のうつりかわり

珠洲市のうつりかわり

 珠洲市(すずし)は、日本海に飛び出るかたちの能登半島のいちばん先にあります。
 おおむかしから、出雲(いずも、いまの島根県)や佐渡(さど、いまの新潟県佐渡市)、蝦夷(えぞ、いまの青森県から北海道にかけてのあたり)とのあいだを、船でいききする人たちの大切な港でした。
 いろんな知識や道具をもった人たちがやってくるので、はやい時代には「鉄器文化」(ひとびとが鉄でできた道具を使うくらしをすること)が始まっていて、お米をつくるための田んぼもどんどん作られていました。このことから、能登地方(いまの宝達志水町から珠洲市、輪島市にかけてのあたり)の古代の文化は珠洲市がはじまりではないかという意見があります。

 地名の「能登」については、もとになったことばは、えぞ地方に多く暮らしていたアイヌ人の使っていたことばではないかという説がありますが、はっきりした証拠は見つかっていません。いまものこっている古い書物に漢字で「能門」とかいて「ノト」と読むものがあり、その後は「能等」に変わったりしました。
 日本じゅうに古墳(こふん、王さまなどのためのお墓)が作られていた古墳時代の西暦130年ごろには、彦狭島命(ひこさしまのみこと)という人が、能登国造(のとのくにのみやつこ)という役目をまかされたというできごとが書物にのこっています。その後は、大化の改新まで、人々が住むちかくの村どうしをくっつけて国を大きくするなどをくりかえしていました。
 養老2年(ようろう2ねん、西暦でいうと718年)に、律令制(りつりょうせい、いまの法律のようなもの)にもとづいて、もともとちかくにあった別の国の越前国(えちぜんのくに)から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡を分け、まとめてあたらしく「能登」という国がつくられました。そのころの珠洲郡とは、だいたいいまの珠洲市とおなじくらいのおおきさです。
 天平宝宇元年(てんぴょうほうじがんねん、西暦757年)に、能登国主(のとのくにのぬし)をまかされた大伴家持(おおとものやかもち)という人が珠洲に着いたときにつくった「珠洲のうみに朝びらきして漕ぎくれば長浜のうらに月照りにけり」という和歌は、日本じゅうの和歌をあつめてつくられた万葉集にも載せられてとても有名になりました。
 文治元年(ぶんじがんねん、西暦1185年)、そのころの貴族だった平家(へいけ)のひとびとと、武士の源氏(げんじ)のひとびとがたたかった源平の戦い(げんぺいのたたかい)で、源氏に敗れた平家のひとり、平時忠(たいらのときただ)という人は、今の大谷町のあたりにたどり着いてくらしはじめ、今でも多くのたてものや記録が残っています。また、源氏の側のひとり源義経(みなもとのよしつね)は、兄である源頼朝(みなもとのよりとも)から逃げて奥州(おうしゅう、今の東北地方)へ向かうとちゅうに珠洲へたちより、今の三崎町にある須須神社(すずじんじゃ)におまいりして、いくさに勝てるよう願ったといいます。
 鎌倉時代(かまくらじだい)には、珠洲郡には若倭(わかやま)、日置、草見、大足(おおまめ)、余戸(あまるべ)の5つの郷(ごう、または さと)に分かれていて、このうち余戸の郷は今の珠洲市の外にありました。この5つの郷は戦国の武将のひとり畠山義統(はたけやまよしむね)とその一族が長い年月のあいだおさめていましたが、天正6年(西暦1578年)には前田利家(まえだとしいえ)が代わっておさめるようになります。
 承久年間(じょうきゅうねんかん、西暦1219年から1221年)のころの珠洲郡には、お米がとれる田んぼの数が8庄141町5反あるという記録がのこっています。天正年間(てんしょうねんかん、西暦1573年から1592年、安土桃山時代(あずちももやまじだい)ともよばれます)には、112の村と、垣内(かきうち)と呼ばれる土地が127あったそうです。
 藩政時代(はんせいじだい、西暦1603年から1868年ごろ、江戸時代(えどじだい)ともよばれます)の珠洲郡は、今の金沢市にあった役所のひとつ金沢算用所(かなざわさんようじょ)のなかの郡奉行所及改作奉行所(こおりぶぎょうしょおよびかいさくぶぎょうしょ)から田んぼのお米などの農産物を管理されていました。ひとつの村にはひとりの肝煎役(きもいりやく)という役人をおき、10の村を十村組にまとめて、そこには十村役や山廻り役という役人がおかれていました。
 この役人のひとたちは、珠洲にすんでいる多くの農民(のうみん、おもに農業でくらしているひとたち)から年貢(ねんぐ、つくったお米や野菜などではらう、今の税金のようなもの)を取り立てたりするしごとをしていましたが、年貢を納める側の農民のひとたちのくらしは、今のわたしたちとはちがって不自由がおおく、とてもたいへんだったようです。

 明治時代(めいじじだい、西暦1868年から1912年)におこなわれた廃藩置県(はいはんちけん、昔ながらの国の制度をやめて、今とよく似た都道府県(とどうふけん)の制度にあらためること)で、これまで村をあつめてつくっていた十村組をやめて、かわりに大谷、飯田、松波にそれぞれ区会所がつくられ、ひとりずつ区長がおかれました。そのころの珠洲郡には112の村があり、家の数は8,243戸あったそうです。
 明治11年(西暦1878年)には、区町村編成法というあたらしい法律にもとづいて鳳至郡(ふげしぐん)と珠洲郡がつくられ、はじめは輪島に役所がおかれていました。しばらくして珠洲郡の役所が飯田村にうつされ、郡には郡長(ぐんちょう)が、またいくつかの村ごとに一戸長がひとりずつおかれるようになりました。この郡長と一戸長は、はじめはすんでいる人たちどうしで長になってもらいたいひとをえらぶ選挙(せんきょ)を行なっていましたが、あとで官選(かんせん、役所がひとを選んで仕事をまかせること)に代わりました。
 明治22年(西暦1899年)には市や町についてのあたらしい法律ができ、珠洲郡も80あった村を1つの町と19の村にまとめなおし、大字(おおあざ、住所の区分のひとつ)にその村の古くからの呼び名を使うことになりました。このとき、町と村にはそれぞれ町長、村長がおかれることになり、このひとたちはまた選挙で選ばれるようになりました。

 このあともなんどか、町村の合併(がっぺい、いくつかの町や村がひとつにまとまること)がおこなわれています。明治40年ごろ(西暦1907年ごろ)には1町10ヶ村になり、その後昭和15年ごろ(西暦1940年ごろ)には小木村、宝立村、木郎村(もくろうむら)、正院村が町にかわりました。

 そして昭和29年(西暦1954年)7月15日、それまでのこっていた5町6ヶ村のうち、小木町と松波町をのぞく宝立町、飯田町、正院町と、上戸村、若山村、直村、蛸島村、三崎村、西海村の3町6ヶ村があらためて合併し、今とおなじ珠洲市になりました。この時の珠洲市の面積は249.94平方メートル、人口は38,157人でした。


※このコンテンツは、「珠洲市の沿革」をもとに、特に子ども向けに読みやすくしたものです。

 
Get Adobe Reader

本サイトをご覧いただくためには、アドビリーダーが必要です。
こちらからダウンロードしてください。


お問い合わせ
総務課 情報統計係
Tel 0768-82-7878
Fax 0768-82-5685
it@city.suzu.lg.jp

よりよいウェブサイトにするために
ご意見をお聞かせください。

このページの情報は役に立ちましたか?



 
アクセシビリティへの配慮 | 個人情報の取扱い | リンク・著作権・免責事項